NLP 自分と向き合う
ある素敵なエピソードを聞きました。
テレビ番組で見たものですから、ご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。
印象的な話として少しだけ紹介させていただきます。
「シークレット・サンタ」と呼ばれた人物の話です。
この物語の主人公、ラリー・スチュワートズは20代前半に起業しますが、まもなく会社を倒産させてしまいます。借金に追われ文字通りの無一文になったある年の年末。
8日間も何も食べてなかったラリーは、意識が朦朧としたまま一軒のレストランに足を運びます。
その日はちょうどクリスマス。
席に着くと、彼は料理を食べてしまうのです。
自分を取り戻したのは、満腹になったとき。
無銭飲食をしてしまったことに彼は焦ります。
財布を探す「フリ」をして、ごまかそうとしているとき後ろから歩み寄る人影。
その様子を見ていた店主が声をかけてきました。
「これ、落としていましたよ」。
そう言って店主は一枚の20ドル札をラリーに手渡します。
店主の勘違いに救われたと思った彼は、その場を取り繕って支払いをして窮地を切り抜けました。
そこから頑張って数年後、彼は再び会社を作ります。
しかし、また倒産。
お金に困った彼は、ついに銀行強盗を決意します。
今にも強盗をしようと拳銃に手をかけたその時。
目の前の少女がカウンターで貯金をしようとしてお金を出しました。
そこにあった1枚の20ドル札。
ラリーは、4年前のクリスマスを思い出します。
そしてギリギリのところで銀行強盗を思い留まり
もう一度あの店に足を運ぶのです。
そこで店主に4年前の20ドル札のことを聞きました。
店主が言います。
「クリスマスは誰もが幸せになれる日なんだよ」
ラリーは自分が助けてもらっていたことに気づきました。
そしてセールスマンとして再出発します。
結婚をして、子供を授かり、迎えた31歳のクリスマス。
彼は貯金を全て引き出します。
全てを20ドル札として。
そして赤いスウェットと白のオーバーオール、赤の帽子、サングラスに身を包み、街へ出かけます。
自分を救ってくれた20ドル札を、生活に苦しむ人たちに配り始めたのです。
それから毎年、クリスマスになると20ドル札を配るラリー。
彼は、いつしか「シークレット・サンタ」と呼ばれるようになります。
その後、事業に成功して財を築いてからも、27年に渡って20ドル札を配り続けました。
およそ700万人に、総額130万ドル。
2006年、彼はガンに冒されながらも、最後のシークレット・サンタとしての活動を成し遂げました。
そして2007年1月、静かに眠りにつきます。
ところが、その年の12月。
街にはシークレット・サンタが現れたのです。
何人ものシークレット・サンタが。
彼に救われた人々が、彼の意志を継いで20ドル札を配りました。
今もアメリカには、大勢のシークレット・サンタがいるという話です。
…いかがでしょうか?良い話じゃありませんか?
不景気やら事件やらと、暗い話が耳に入ってくる中で
心温まるエピソードのように感じます。
漠然とした不安の陰に
ただ、こうした「良い話」がテレビ画面で、頻繁に見られるようになってきているのは、
「それだけ多くの人が感動できるような体験を求めている」と捉えることもできるかもしれません。
多くの人が先行きの見えない情勢を感じているのか私自身の実感としても、漠然とした不安の声を聞くことが増えてきたように思います。
自分自身の役割への不安。
「このまま行くと、将来はどうなるのだろう?」という疑問。
「自分はこれでいいんだろうか?」という思い。
なんとなく満たされていない感じ。
そこには経済状況に加えて入り組んだテーマがあるようです。
そのことに関して、試しに、問題を3段階に分けて考えてみましょう。
【第一段階:「自分自身」の問題】
まずは「自分自身」の問題。
自分が生き抜いていくという点で関わる部分です。
収入や住居、健康面など、安心して生きていくためのベースとなる部分と言えそうです。
景気の問題は、ここに関わるところが大きいかもしれません。
将来にわたって仕事や収入の面で、一切の不安を持たない人というのはいないはずです。
明日、急に会社が倒産するかもしれないとか、急に商品が売れなくなるとか、
そうした危険性は”0”にはできないものかもしれません。
どんなに財産のある人だって、インフレになれば貯金の価値がなくなってしまう
危険は想定できるわけです。
にもかかわらず、不安を強く感じる人と、そうでない人がいるのも事実です。
その大きな違いは、一言でいうと自信の差だと考えられます。
仕事で実績を積んできた自信。
自分で新しく仕事を切り開いてきた自信。
自分の能力なら何とでもなるだろうという自信。
いざとなれば人脈を使って、切り抜けられるだろうという自信もあるかもしれません。
「自分には出来る」という自信の積み重ねが、将来への不安を弱めてくれます。
このような能力に関する自信を心理学用語で「自己効力感(セルフ・エフィカシー)」と言います。
自己効力感の高さが、不安を乗り越える強さに繋がるということです。
【第二段階:「他人→自分」の問題】
2番目は、「他人から自分へ」の問題。
他人との繋がりの問題と言ってもいいでしょう。
他人から自分がどのように扱われるか、ということです。
承認欲求とも関連します。
会社において、組織において、家庭において、あらゆる人間関係の中で自分が他人から大切に扱われていると感じられるか。
認められている、正しい評価を受けている、と感じられるかです。
お客様と直接関わる職業であれば、お客様の声や満足そうな姿が承認のメッセージになるでしょう。
人との関わりの少ない仕事であれば、職場内での評価や称賛を実感できる度合いが重要になると考えられます。
本来は直接的にお客様の声を聞きたくても、そこから十分な評価のメッセージが得られないような
仕事環境にあると不満は溜まっていきやすいものです。
また、自分の力を十分に発揮させてもらえないと感じる場合、自分の力を正しく評価してもらえていないと感じる場合にも、当然、承認が不十分となって不満が高まります。
他人との関係性の中で生まれる不満は、とても気の毒なことだと思いますが
組織に所属する人にとって状況を自分で、直接的に改善していくことは難しいかもしれません。
【第三段階:「自分→他人」の問題】
最後に、3番目の問題。「自分から他人へ」という部分です。
自分が他人に対して何をしていきたいか。
他者からの承認を目的にするのではなく、相手に対して自分がすること自体が喜びに感じられるもの。
世の中に対して自分が影響を及ぼしたいこと。
言葉で納得してもらうのは難しいかもしれませんが、生きる意味のようなものでしょうか。
単純に好きだからという理由でその道を選ぶ人もいれば、現状への怒りから道を選ぶ人もいます。
私の知り合いに父親が病気になったことがキッカケで、病気を治す薬を作るために研究職を選んだ人がいました。
こういうレベルの動機があると仕事への意気込みは揺るがないものかもしれません。
しかしながら、この「自分から他人へ」のテーマを見つけられる人は多くないようです。
その一方で、経済的な成長ばかりが幸せの基準ではないことを感じ始めた人々は、自分の存在価値とも言えるこのテーマに、問題意識を持つことがある。
現状の漠然とした不安にはこのような部分もありそうです。
自分から自分へ
3番目の内容は非常に重要なテーマですが、現実的には2番目の内容:「他人から自分へ」の部分を大切にしていく方が役立つことが多い、というのが私のスタンスです。
そこで、「他人から自分へ」の問題に対して効果的な方法を紹介していきます。
同時に、これは最初のテーマ「自分自身」の問題に関しても効果を発揮してくれるものです。
自己効力感を高め自分自身への承認不足に対する不満を解消してくれる。
そんな効果の期待できる方法です。
地道で単純なことに思えるかもしれませんが、実践すると効果が実感できるはずです。
その方法とは、「自分で自分の行動を評価する」というものです。
他者からの評価が得られないときに自分で自分を承認するのです。
ちょっとしたちょっとしたことが上手くいった時予定通りに準備が終わった時、予想していた結果が出たとき、色々なタイミングで小さな達成感を味わっています。
努力が継続する人の特徴として、自分の努力を自分で褒めている傾向があります。
自分で自分を褒めるのです。
お客様と直接関わらない場合など、他人からの承認が得られにくい
タイプの仕事では効果的な方法だと言えます。
具体的には、やったことをノートに書きだしたり「やることリスト」を1つずつチェックしていったりするのも良いでしょう。
できたことに注意を向ける。
それによって自己効力感を高め、自分を承認することになります。
また、自分自身を承認するのには、鏡の中の自分に「ねぎらい」の言葉をかけたり
自分に向かって手紙を書いたりするのもオススメです。
「頑張っているのに報われない」という印象を持っている人には是非、実践していただきたいと思います。
私の知人には、旅行に行くとホテルから、自分に向けて手紙を書く人がいますが、とても有効な方法でしょう。
そして、もう1つ、ヒントになりそうなエピソードを紹介します。
NLPが参考にした心理療法家のミルトン・エリクソンに関する逸話です。
African Violet Queen アフリカスミレの女王
エリクソンが精神科医として活躍し講演をするようになっていた頃の話です。
エリクソンがミルウォーキーに講演に行ったとき
彼の同僚が叔母さんのことで相談を持ちかけます。
酷いウツ状態ということでした。
その女性は、親の財産を相続して豪邸に住んでいましたが
結婚したこともなく、親戚もほとんど失っていたため、いつも孤独な生活をしていたのです。
彼女は60代以降、車椅子での生活を続けていたため、社会的な接点も全くといっていいほど
無い状態になっていました。
そのような中でウツ状態が深刻になり、ついには自殺をほのめかすようになってきていたため、甥がエリクソンを紹介したというわけです。
エリクソンが女性の家を訪ねたとき、その家のカーテンは全て閉め切られていました。
彼女の心の内を表すかのようにまさに鬱々とした有り様だったそうです。
20世紀初めのことですから、家の中も車椅子での生活には不便で限られた活動範囲以外が放ったらかしになるのも無理はなかったかもしれません。
エリクソンは、女性の暗い家を一通り案内され、最後に温室へと連れて行かれます。
ところが、その温室だけは、他の場所とは違って綺麗に管理されていました。
温室は特別な場所だったのです。
その女性は、そこでアフリカスミレを栽培することを
唯一の楽しみにしていたようです。
温室の中には沢山のアフリカスミレの花が咲いていました。
彼女は、アフリカスミレの株分けをして、新しい鉢植えを作っては温室の中を彩っていたそうです。
話を聞いてみると、その女性は敬虔なクリスチャンだということでした。
しかし、以前は教会の活動に積極的だったものの、車椅子生活になってからは日曜日にだけ、少し訪れる程度になってしまっていたということです。
エリクソンは、この部分に注目します。
そして、エリクソンはその女性に言いました。
「あなたのウツ状態は深刻です。
しかし、あなたの問題はウツ状態ではありません。
あなたが、クリスチャンとして不適切なことが問題です。」
その女性はショックを受けました。
すかさず、エリクソンが指示を出します。
「あなたには財産がある。時間もあります。
そしてアフリカスミレの苗もある。
今、その全てが無駄になっています。
ですから、教会に行って登録者のリストをもらってきて下さい。
そして、結婚、出産、病気、葬儀などがあったときに、クリスチャンとして相応しい行動をして下さい」
彼女は、エリクソンの指示に従いました。
地域のイベントのたびに、アフリカスミレの鉢植えをプレゼントすることを続けたのです。
どうやら、いつの間にかその女性のウツ状態は改善していたようです。
それから十年後。新聞にある記事が取り上げられました。
「ミルウォーキーのアフリカスミレの女王亡くなる。
数千人に見送られて。」
その女性は、街の多くの人々に愛されて、旅立っていったということです。
その女性の行いは、彼女自身のウツ状態の改善に役立っただけではありませんでした。
それによって、彼女の存在が街中の人の心に残ることになったのです。
…このエピソードは「他人のために何かをする」ということの意味を教えてくれます。
「他人のためにしている」という意識そのものが自分の気持ちをポジティブな方向に導いてくれるようです。
他人のためにしている行為が他者との繋がりを実感させてくれるのでしょう。
そして、自分がしたことに対する相手の反応が再び自分に返ってきます。
この気持ちの交流が、自分と他人との繋がりを感じさせてくれる。
そのために、自分から率先して「他人のために何かをする」というわけです。
それは些細なことでも良いのかもしれません。
自分から挨拶をする。自分から笑顔を向ける。
自分から感謝の気持ちを伝える。
そんなことでも何かの変化が期待できそうです。
十分に受け取ってみると…
ところで、「シークレット・サンタ」のエピソードには、1つの特徴的なシーンがありました。
彼が20ドル札を手渡したときの人々の反応です。
皆が喜びを表現して、感謝をしながら20ドルを受け取るのです。
誰も遠慮したり、怪しんだりはしません。
卑屈になることも、反発することもありません。
「自分を救ってくれた20ドル札を多くの人に渡したい」という彼の想いを、誰もが正面から受け止めていました。
誰もが驚きと歓喜の声をあげ、時には涙しながら、抱きつきながら、感謝の気持ちを表現していました。
そこには他人の好意を受け止める気持ちがあったようです。
喜びや感謝を十分に体験する。
この「十分に体験する」ということを、日本語では「味わう」という言い方で表現することがあります。
英語でも「Savor」と言いますが、これも味覚としての「味が感じられる」という単語と同じものです。
じっくりと体験に浸ることを味にたとえて表現する感覚が、文化を超えて人々の中に育まれているのかもしれません。
また、人の味覚の好みは、成長につれて変わっていくことがあるようです。
子供のころには分からなかったコーヒーやビールの苦みが、大人になると美味しさとして感じられるようになってくる。
ワサビや唐辛子、スパイスなどの刺激的な味わいも、大人になるにつれて魅力に感じられるようになってきます。
好みの問題もありますが慣れてくるにつれて違いが分かるようになってくるわけです。
苦いだけ、辛いだけでは美味しさとは感じられにくいものです。
他の味と合わさって魅力的になる。
そして、以前は良いと思わなかった味であっても、複雑な「味わい」として感じられるようになっていく。
私たちの体験にも、似たところがあるような気がします。
辛い体験や、苦い気持ちでさえも、人生の「味わい」の豊かさとして感じられるときが来るのかもしれません。
日々の生活の中で感じる漠然とした不安や物足りなさ。
それに不満を感じて新しい場所へ旅立つ選択もあります。
自分が活躍できて、喜びを感じられる場所に進んでいくこともあるでしょう。
ただ、その前に、現状を十分に味わってみるのも良いように思います。
不安や不満が漠然としている状態の中には、もしかすると、苦味や辛味だけを感じている場合もあるかもしれません。
現状としっかり向き合い、十分に味わってみたら、苦さや辛さの奥にある複雑な味わいに気づけるかもしれません。
十分に味わって、好みじゃないと確かめられたら、好みの味わいを求めて進んでみても良いでしょう。
その時には、以前よりも繊細に、より豊かな味わいに気づける、自分になっているのではないでしょうか。
そして、十分に「今」を味わってみたとき、どうやら特に後味として余韻を残しやすいのが感謝の気持ちのようなのです。
もしかすると、今まで気づかなかったことが見えてくるかもしれません。
それは、どこか心を豊かにしてくれるものかもしれません。
そうだとしたら、そいつは、なかなか素敵なクリスマス・プレゼントのようではありませんか?