NLP人財育成~育成の視点~
「育成」って、なんだ?
「人を育成する」といったとき
その相手の何が変わったときに「育成が上手くいった」とか
「成長した」と判断されるのでしょうか?
幼稚園や小・中学校の先生であれば
生徒の体が健康的に発育することや
集団の中での人間関係の作り方を身につけることなども
大きな目的になるかもしれません。
NLPの視点からすると
自分の体の外側に起きていることと
適切に関わる方法を身につけ
外側の出来事に対して自分の体の内側で
反応するものを表現する方法を身につける、と言えるでしょうか
目や耳から入ってきた外の世界の情報に対して何かを感じ、
それを言葉や態度、行動で示す。
その結果として
コミュニケーションの基本を学んでいくわけです。
例えば、一人の子供がカマキリを見つけて
捕まえたとします。そして、カマキリを眺めたり、
触ったりしていたときに、あの鎌のような手で挟まれてしまった。
もし、その子供が言葉を話せない年齢であれば
きっと泣いて誰かに知らせることでしょう。
痛みに対して泣くという表現をする。
そして大人に来てもらって助けを求める。
これが少し大きくなってくると、
痛みや驚きで泣きながらも言葉で事情を
説明するようになってきます。
何があったのか、結果として自分は何を感じたのか。
そのことを分かってもらえるように工夫を始めるわけです。
外の世界で起きた「カマキリに挟まれた」という
出来事に対して、自分の内側で起きた気持ちを
「ただ泣く」という方法で表現していた
それが「泣きながら言葉で伝える」という表現に変わっています。
さらに、周りの子供は泣いている子に対しての
関わり方も学ぶことになるでしょう。
泣いているのを慰めようとする。
どうして良いか分からずにオロオロする。
気にせずに一人で遊び続ける…。
様々な対応を取る子供たちに大人が指導をすることで
社会として適切なコミュニケーションの方法が学ばれていきます。
仮に、その大人が「泣いている人を慰める」ことを
大切にしていたとすれば、慰めた子を褒め、
気にせずに遊んでいた子を注意するかもしれません。
そんな指導を受けて、社会性を学んでいくということです。
数多くの人間関係の経験を通じて
状況ごとに適切な態度と言葉の表現方法を身につけていくのです。
そして、社会としてのルールや常識を定着させていきます。
特にNLPにとって大切なのは、ルールや常識の範囲内にも、
対応の仕方に個人差があるという部分です。
泣いている人がいたとき、
慰めてあげることが優しさだと思うのか
何もせずに見守っていることが優しさだと思うのか。
カマキリのように何か新しいことへ興味を持ったとき
とりあえず手を伸ばして触ってみようとするのか
慎重に考えてから触るかどうかを決めるのか。
カマキリに挟まれたときのように困った事態に遭遇したとき
誰かへ助けを求めに行くのか、自分で何とかしようとするのか。
そうした対応の仕方の癖は、幼少期からの経験を通じて
あたかも自分の人生の法則のように作り上げられていきます。
それが、その人の特性となります。
同時に、経験を通じて、
自分が大切にしたいことも固まっていきます。
「優しさ」や「好奇心」
「自立」や「信頼」といったもの。
これらを価値観と呼びます。
その人の特性となっている行動パターンの裏側で
大切にしようとしていることが価値観だと考えてもらうと良いでしょう。
「泣いている人を慰める」という行動の特性の奥には、
「気配り」という価値観があるのかもしれません。
一方、「泣いている人を静かに見守って声をかけない」という
行動の特性の奥には、「信用」という価値観があるのかもしれません。
人は幼い頃から数多くの経験を通して、
自分の行動パターンの特性と、大切にしたい価値観とを育んでいるのです。
育成の対象の1つは、その人の人間としての個性、
つまり人間性の部分といえるでしょう。
技術の育成
また、小・中学校では、様々な科目の勉強も習います。
国語の時間に文字の読み書きを教わり、
算数の時間に計算などのルールを教わります。
体育の時間には、運動の仕方を教わります。
小・中学校の時期は身体的にも成長期ですから
勉強や運動の時間そのものが身体や脳の発達に役立っているはずです。
ここで考えたいのはトレーニングという観点です。
国語でも算数でも体育でも、そこにはトレーニングとしての
一面があるのです。練習といっても良いでしょう。
体育で跳び箱の練習をしたことを思い出してみます。
走ってきて踏み切る場所。
ジャンプの方向。
跳び箱への手のつき方。
手をついて体を前に運ぶ動作。
足の抜き方。
全てを合わせるタイミングの取り方。
…跳び箱で必要なことを少しずつ練習して、跳べるようになります。
上達のスピードや、不安や恐怖の度合いなどに個人差は出ますが、
技術として必要なことを習得すれば
ある程度のレベルまでは跳べるようになるでしょう。
国語の時間に文章をスムーズに読むのもトレーニングです。
算数の計算問題などは、典型的なトレーニングの例でしょう。
「勉強」という呼び方をすると抵抗を感じる人もいるかもしれませんが、
算数の計算問題のドリルをやるのと、
跳び箱の練習をするのはトレーニングという視点では同じです。
その作業が効率的にこなせるように、練習しているのです。
始めは指を折って数えながら
「2+3は…、2と3で…、
1、2、3、4、5…。5だ!」とやっていたものが、
いつの間にか、「2+3」という文字を見ると頭の中に
「5」が浮かぶようになってくる。
それは跳び箱のときに、「ここでジャンプして、手をついて、
腕をグイッとやって、足を前に…、着地!」と意識していたことが、
いつの間にか、何も考えなくても跳べるようになるのと同じプロセスなのです。
中学校の数学でやった図形の問題や証明の問題なども
解法のパターンを身につけるという部分では
やはりトレーニングに当たります。
広い意味では、何かのパターンを自分なりに
身につけていくことが学習だと言えるでしょう。
正確には、経験によって身につくパターンは
全て学習なのですが、ここでは技術的に
練習をして上達していくものを考えて下さい。
小・中学校の授業を通してやってきたように
育成の対象のもう1つは、技術だということです。
今までのところを整理すると…、
●人は社会における人間関係の中で、
自分なりの人づきあいの法則(特性や価 値観)を作っていく
●人は頭や体を使って行う作業に対して、
技術のトレーニングを通じて作業を効率化していくとなります。
人間性として表現されるような特性や価値観と
トレーニングで上達させることのできる技術と
2つの側面に分けて考えてみるわけです。
特性や価値観を「どのような人であるか」という意味で
「Being」と呼び、技術を「どんな行動を、どのようにできるか」という意味で
「Doing」と呼ぶこともできます。
現実的には、特性・価値観(Being)と技術(Doing)の両方が
必要な場面も多々ありますが、どちらを育成するのかを
意識したほうが対応を効果的なものにしやすいはずです。