NLPの開発の歴史と発展。スピッツァー
それは、17歳で音楽がとても好きだったリチャード・バンドラーが、ロックコンサートの手伝いをしたところから始まった。
彼は、ロバート・S ・スピッツァー博士の妻から、息子のダンにドラムを教えてほしいと頼まれた。
ベッキー・スピッツァーは、リチャードが哲学に興味を持っていることと、音楽を教えるのに知的な手法を使うのに感心した。
スピッツァー家はサンタクルーズの近くの田舎にキャビンを持っていて、リチャードは、カリフォルニア大学で勉強を始めたとき、そこの管理人となり、またその敷地に自分用の小さな小屋を建てた。
リチャードがバージニア・サティアに初めて会ったのは、このスピッツァー博士のキャビンであった。
彼女はそこで、イスラエル人の友人のために家族療法をやっていた。
スピッツァー博士は、「科学・行動学書店Science and Behavior Books」の会長をしていて、そこで働いていたリチャードに、バージニアがカナダでやることになっている、1か月にわたるワークショップの録音とそのテープ起こしを依頼した。
リチャードは数か月かけてテープ起こしをしたが、そこから、バージニア・サティアの声のパターンやしぐさの特徴の多くを記述した。
彼は、自分が曲を覚えるのにちょうど同じことをしたと言った、つまり自分の好きなミュージシャンの曲を何度も何度も、そっくりそのまま真似られるようになるまで聞いたのだ。これは深い同一化の一つの形である。
フリッツ・パールズ
リチャード・バンドラーはまた、フリッツ・パールズの最後の著作の手伝いもして、それは「ゲシュタルト・アプローチ」として出版された。
「科学と行動学書店」はまたもう一つの著作「治療の目撃者」という、パールズが講義する録画から起こしたものを出版した。
リチャードはイヤフォンをつけて録画を見、起こした原稿が正確かどうか、何週間もかけてチェックした。
結果として彼は、フリッツ・パールズの話し方やふるまい方の多くを身に着けてしまった。それがあまりにもそっくりだったので、ロバート・スピッツァーは何度も彼をフリッツと呼んでしまうほどだった。
こうしてたくさんのことを学んだのでリチャードは、学部在籍中にゲシュタルトのグループをキャンパス内に立ち上げた。
レズリー・キャメロンが、臨床心理学の修士課程の実習の一環として、リチャードのゲシュタルトグループを手伝った。
ジョン、グリンダーの回想によると、リチャード・バンドラーが彼のところに来て、言葉を理解し作り出す無意識のプロセスが、言語学によってエレガントにモデル化されているから、たぶん他の無意識のプロセスもモデル化してみるべきではと言ったそうだ。
その意図は、言語的要素以外のコミュニケーションの単位を解明し、コミュニケーションの「文法」をまとめることだった。
ロバート・スピッツァーはバージニア・サティアが作業しているビデオを持っていて、1975年に出版されることになった「家族とともに変わるChanging with Families」という本について考えているところだった。
リチャード・バンドラーとジョン・グリンダーは、この本のもとになったビデオを研究し、バージニア・サティアの「お気に入りのフレーズ」(当時彼らはそれをFavorite licks と表現した)のいくつかを完全に理解することができた。
彼らはバージニアにビデオを見せて、彼女がやっていることを彼ら自身の用語で説明した。クライアントの持ち込んだ問題について明らかにする彼女の手法は、メタモデルの先駆けとなった。
また彼らは、バージニアがクライエントに時には視覚的な言葉を使い、また他の時には聴覚的、あるいは別の人たちには身体的な言葉を使って話すことに気づいた。サティア自身はこのことに気づいていなかった。
バージニア・サティア
二人はこれらの発見を、「魔術の構造‐第1巻1975年、第2巻1976年」として出版した。
もともとは、リチャード・バンドラーの修士論文として出発した。それが、NLPについて出版された最初の著作となったのだ。1976年の春には、彼らのやっていることの正式な名称として、神経言語プログラミングNeuro-Linguistic Programmingが採用された。
彼らは、ジョージ・ミラー(グリンダーがロックフェラー大学で共に学んだ)とグレゴリー・ベイトソン(たまたまグリンダーの近所に住んでいた)を含むシステム理論など、様々な分野からアイデアを得た。
バージニア・サティアがこの本の前書きを、そしてグレゴリー・ベイトソンが序説を書いた。
リチャード・バンドラーとジョン・グリンダーは、デヴィッド・ゴードン、ジュディス・ディロージャ、ロバート・ディルツ、そしてスティーヴ・ギリガンなどの学生グループの中心的存在となった。
ミルトン・エリクソン
あるとき、グレゴリー・ベイトソンが、アリゾナのフェニックスで開業している有名な催眠療法家、ミルトン・エリクソン(医学博士)に教えを乞ってはどうかと提案した。
エリクソンは、彼らに全く新しい境地を開いて見せ、それ以来NLPに大きな影響を与えた。バンドラーとグリンダーは、エリクソンの世界にどっぷり浸かるというお決まりのやり方で学び、催眠のエキスパートとなった。
彼らは「ミルトン・H・エリクソン(医学博士)の催眠療法パターン」という本を1975年に出し、その後ジュディス・ディロージャと共著で第2巻を1977年に出した。
これは催眠の分野での大きな貢献となった。ミルトン・エリクソン自身は「リチャード・バンドラーとジョン・グリンダーの、ミルトン・H・エリクソンの催眠療法パターンは、私が患者に対して使う激しく込み入った言語を、すばらしく単純化してくれた。
これを呼んで私は、自分が知らないうちにやっていたことについて、たくさんのことを学んだ」と語っている。
モデリングの技術そのものについてはあまり一般の関心がなかったが、いろんな分野で成功している人々をモデリングした結果については、多大な関心があった。結果として、NLPは、これらのパターンの効能のおかげで、よく知られるようになったのだ。
彼らの中核グループは、考え方の違いがもはや無視できなくなったため、1981年に解散した。グループの「恐るべき子供」リチャード・バンドラーは、自分自身のNLP団体を作り、のちに「デザイン・ヒューマン・エンジニアリング」を導入し、自分の選んだ数名のトレーナーと共に提唱している。
リチャードはたびたび論議をまきおこす状況に陥ってしまうため、彼のすばらしさがその陰に隠れてしまうことが多い。
NLPはすでに人類の知識となってしまっているため、一人の人がそれを登録したり所有することは不可能である。またそれはリチャード・バンドラーとジョン・グリンダーだけでなく、もっと多くの人がその発展に貢献した。実際NLPはまだ発展し続けているし、これからもそうであろう。
ジョン・グリンダーとジュディス・ディロージャは"Grinder, DeLozier and Associates"という会社を作り、1980年代にその名のもとで講習を開催した。
カナダ人女優ヴィオラ・ラジェールやアイルランド人の手当療法家のフィンバー・ノーランなどの面白い人たちが彼らのモデリングワークショップにやってきた。
1980年代の終わりには、グリンダーとディロージャは「個人的天才の必須条件」と呼ぶワークショップを始め、そこから彼らの共著「どんどん下に重なっていく亀」が1987年に出版された。
この個人的天才の研究からNLPの「ニューコード」が生まれ、おなじみの知覚位置などの概念がこれらのワークショップに導入された。1989年にはグリンダーは、ビジネス界でのコンサルタントとしてやっていくことに決めた。
ジュディス・ディロージャは当初から、NLPの開発者とトレーナーとの両方の役割で、世界中で活躍していた。1990年、ジュディスはロバート・ディルツと、故トッド・エプスタインと共に、「NLP大学」を設立し、毎夏NLP認定プログラムを開催した。
これらの講習は多くの人から、NLP業界の中でも秀逸なものであるとされた。ジュディスがアジア地域でのNLPの普及に貢献してくれていることは、私たちにとって大変幸運なことである。
レズリー・キャメロンは「フューチャー・ペース」と呼ぶ会社を開き、NLPプラクティショナー及びマスタープラクティショナー講習を提供している。レズリーはNLPの中核的なコンセプトの発展になくてはならない人物であった。
たとえば,メタプログラムのほとんどは彼女がまとめたのだが、それは彼女がやっていた「形式と内容」の研究から発展してきたものである。
レズリーはたぶん、能力のパターンの研究によって最もその名が知られているだろう。それは1985年出版「エンプリント・メソッド」、そしてデヴィッド・ゴードンとマイケル・ルボーとの共著「ノウ・ハウ」にあらわされている。
また彼女の男女関係やセクシュアリティに関する研究は1985年出版の「ソリューション」、1986年マイケル・ルボーとの共著「感情的人質Emotional Hostage」にあらわされている。
レズリーが1989年にNLPに積極的にかかわることから退く前の最後のプロジェクトは、「命令する私Imperative Self」である。
ロバート・ディルツは、サンタクルーズのカリフォルニア大学に入ったとき、ジョン・グリンダーとリチャード・バンドラーのグループに加わった。NLPが今日ある姿と、これからどうなっていくかということについて、ロバート・ディルツに十分感謝しつくすことは不可能である。
彼はNLPを絶えず進化させている。たとえば彼がロバート・マクドナルドと共に展開する「スピリットのツール」におけるスピリチュアリティや、スティーヴン・ギリガンと共同でやる「暴力の眼前での愛」など。
ロバートは「NLP:新たな心理学」という論文を書いたが、それがのちに彼の初の著書「NLP第1巻」(1978)となった。これはジョン・グリンダーとリチャード・バンドラーそしてジュディス・ディロージャとの共著である。
その後、彼はたくさんの本を出した。もっとも最近のものは、「天才の戦略」シリーズである。ある意味、「NLP第1巻」がこれらの後の出現を予言していたともいえる。彼らがそれぞれの道を選んだためにディルツが出版するまで実現しなかった。
この日本語訳は、世界的なNLPトレーナー、Richard Bolstad(リチャード・ボルスタッド)氏の「Japanese-NLP-Varieties-bilingual-Manual」を参考にして掲載しています。
出典:ジュディス・ディロージャさんのHPより。
http://www.the-solutions-group.net/Coming%20events/NLP/Brief%20history.html
It all began with Richard Bandler who at the age of 17 was very interested in music and helped put on rock concerts. He was asked by the wife of Dr. Robert S. Spitzer to teach their son Dan how to play the drums. Becky Spitzer was impressed by Richard's interest in philosophy and the intellectual approach he used for teaching music.
The Spitzer's had a cabin in the country near Santa Cruz, and when Richard switched his studies to the University of California, Santa Cruz, he became a caretaker of the property and built himself a small place on the property. It was in Dr. Spitzer's cabin that Richard first met Virginia Satir at a family reconstruction she was doing for an Israeli friend. Dr. Spitzer was also president of Science and Behavior Books and asked Richard, who was working there, to audio tape and transcribe a month long workshop Virginia Satir was to conduct in Canada. Richard spent several months transcribing the audio tapes and, after a while, developed many of Virginia Satir's voice patterns and mannerisms. He said that this was how he learned music by listening to the work of someone he admired over and over again until he sounded just like the person he was imitating. This was a form of deep identification process.
Richard Bandler also helped edit Fritz Perls’ last manuscript which was published as "The Gestalt Approach." Science and Behavior Books published another book "Eye Witness to Therapy" which was essentially a transcription of teaching films made with Fritz Perls. Richard spent weeks wearing earphones while watching the films, making certain the transcription was accurate. He came out of this having adopted many of the speaking and acting habits of Fritz Perls. Apparently, the habits were so convincing that Robert Spitzer found himself accidentally calling him Fritz on several occasions.
With all his knowledge Richard started Gestalt groups on campus as an undergraduate. Leslie Cameron was doing the practicum for her MA in clinical psychology by helping run Richard's gestalt group. According to John Grinder's recollection Richard Bandler approached him and said the linguists had elegant models of the unconscious process of understanding and generating language and, that perhaps they should try making models of other unconscious processes. The idea was to identify units of communication other than linguistic components and to work out a "grammar" of communication.
Robert Spitzer had a videotape of some of Virginia Satir's work and was contemplating a book which was published in 1975 under the title "Changing with Families." Richard Bandler and John Grinder worked with the video upon which the book is based, and was able to understand thoroughly some of Virginia Satir's "favourite licks" as they expressed it at the time. They were able to show Virginia Satir the tape and translate what she did into their own terminology. Her methods of clarifying the presented problems were the precursor to the Meta Model. They also noticed that Virginia Satir would speak to some clients in primary visual terms, to others in auditory terms, using more kinesthetic oriented language with still others. Satir had been unaware of doing this herself.
They wrote up their findings in "The Structure of Magic, Vol. 1, 1975 and Vol. 2 1976. This had started out originally as Richard Bandler's master thesis. This book became the first NLP book to be published. In the spring of 1976 the name Neuro-Linguistic Programming was adopted as the official name for what they were doing. They used ideas from different fields like Systems Theory, including the work of George Miller (John Grinder had studied with him at Rockefeller University) and Gregory Bateson, who happened to be Grinder’s neighbour. Virginia Satir wrote a foreword and Gregory Bateson wrote an introduction to the book.
Richard Bandler and John Grinder had become the centre of a group of students which included David Gordon, Judith DeLozier, Robert Dilts, and Steve Gilligan.
At one point Gregory Bateson had suggested that they study with Milton Erickson M.D., the famous Hypnotherapist in Phoenix, Arizona. Milton Erickson M.D. opened up a whole new world for them and greatly influenced NLP from then on. Bandler and Grinder used their unique approach to model Erickson by immersing themselves into his world and become masters of hypnosis themselves. They published "Patterns of the Hypnotic Techniques of Milton H. Erickson. M.D." in 1975 and a second volume in collaboration with Judith DeLozier in 1977. This is a major contribution to the field of hypnosis. Milton Erickson M.D. himself wrote: "Patterns of the Hypnotic Techniques of Milton H. Erickson, M.D. by Richard Bandler and John Grinder is a delightful simplification of the infinite complexities of the language I use with patients. In reading this book, I learned a great deal about the things that I've done without knowing about them."
There was not much interest in the modelling technology itself. However, there was great interest in the results of modelling a wide range of successful people. Consequently NLP has become known largely due to the effectiveness of these patterns.
The core group broke up in 1981 because the differences in their approach could no longer be ignored. Richard Bandler, the "enfant terrible" of the group, formed his own NLP organization and later introduced his Design Human Engineering (DHE) concept which he still promotes together with a few other trainers he personally selected. Richard Bandler often gets embroiled in controversial situations and, as a result, his genius is sometimes obscured by controversy.
NLP is already a part of human knowledge and therefore can not be registered and owned by any single person. Also, it was developed by a group of people not only Richard Bandler and John Grinder. In fact NLP is still developing today and will continue to do so in the future.
John Grinder and Judith DeLozier formed a company they named "Grinder, DeLozier and Associates" under which they conducted training sessions in the early 1980's. Several modelling workshops were conducted with interesting people such as Canadian Actress Viola Lagere and Irish touch healer Finbar Nolan. In the late 1980’s John Grinder and Judith DeLozier introduced a workshop they called "Prerequisites to Personal Genius," out of which came their book "Turtles All The Way Down," published in 1987. The "New Code" of NLP came out of the work on personal genius and now familiar concepts like perceptual positions were introduced in these workshops. In 1989 John Grinder decided that he wanted to pursue his interests in the business world as a consultant.
Judith DeLozier has from the very beginning, been active in NLP both as a developer and as a trainer all over the world. In 1990, Judith DeLozier together with Robert Dilts and the late Todd Epstein, formed the "NLP University" where every summer they conduct a series of NLP Certification programs. These programs are considered by many to be among the very best in the NLP world. We are fortunate to have Judith DeLozier with us in Asia helping us to make NLP available to people living in this part of the world.
Leslie Cameron formed a company she called “Future Pace” through which she conducted NLP Practitioner and Master Practitioner training. Leslie Cameron was instrumental in many of the central concepts of NLP. For example she developed most of the Meta Programs which grew out of the work she was doing with “Form and content.”
Leslie Cameron is perhaps best known for her work with patterns of competence. Published in “The Emprint Method, 1985, and “Know How,” 1985 with co-authors David Gordon and Michale LeBeau. Also her work with relationships and sexuality is published in “Solutions,” 1985 and the “Emotional Hostage,” 1986 with co-author Michael LeBeau.
Leslie Cameron’s last NLP project was the “Imperative Self” before she retired from active involvement with NLP in 1989.
Robert Dilts became part of John Grinder and Richard Bandler’s group when he joined the University of California, Santa Cruz. It is impossible to give Robert Dilts enough credit for what NLP is today and what it can become in the future. He keeps evolving NLP into new areas, like spirituality as in “Tools of the Spirit” which he conducts together with Robert McDonald, and “Love in the face of violence” together with Stephen Gilligan.
Robert Dilts wrote a paper titled “NLP: A new psychology” which later became his first book “NLP Volume 1,” 1978. This was co-authored with John Grinder, Richard Bandler, and Judith DeLozier. This was the first of many books from the keyboard of Robert Dilts. The latest is a series of volumes called “Strategies of Genius,” In a way these are the volumes promised by the first book NLP volume 1, which were never realized since the founders of NLP went their separate ways.