あなたの知らない世界…
五感を刺激する話術
非常に有名な落語があります。
『目黒のさんま』という噺です。
ご存じない方もいらっしゃるかもしれませんので、あらすじだけ紹介します。
ある江戸の殿様が目黒まで鷹狩に出かけます。
その途中で食事をしようとすると、
家来がお弁当を忘れてしまったことに気づきます。
殿様御一行の全員が空腹を感じていると どこからか嗅いだことのない美味しそうな匂いが。
殿様が何の匂いかを聞くと 家来は「これは庶民の魚、サンマを焼く匂いです」と答えます。
殿様は空腹に耐えられず 家来にサンマを持ってこさせて食べてみることに。
それが非常に美味しく、殿様はサンマが大好きになります。
しばらくして、殿様がサンマを食べたいと言い出します。
家来は急いでサンマを買いに行き、調理を始めます。
しかし、サンマの脂が体に悪いと、
家来は脂抜きをしてしまい 骨が刺さるといけないと骨を全て取ってしまいます。
そうなったらサンマの身はボロボロ。
仕方なく、お椀の中に入れて出しますが 殿様はそのサンマが不味くて不満です。
そして家来にたずねます。 「どこで買ってきたサンマだ?」
「はい、日本橋の魚河岸です」 「それはいかん。サンマは目黒に限る」 目黒というのは海から離れた内陸部。
海沿いの日本橋で買ってきた新鮮なサンマが
余計な配慮によって台無しにされてしまったのに 世の中のことを知らない
殿様は目黒のほうがサンマの 本場だと思ってしまった、というオチです。
話の面白さもさることながら、
私はこの落語を聞くとサンマを食べたくなってきます。
落語の面白さを支える要素の1つには、 状況説明の巧みさがあるようです。
過剰になり過ぎない説明と、 曖昧さを残しながらも区別のつく登場人物の役作り。
その絶妙さが、落語を聞く人に状況を自然とイメージさせます。
映画のような迫力や臨場感はないかもしれませんが
聞き手の好きな状況へ入り込めるのは魅力の1つでしょう。
そして『目黒のサンマ』に限ったことではなく、
落語には食べ物を扱った話が多いのも特徴だろうと思います。
落語家が食べるシーンを真似するのも見事ですね。
扇子一本で表現されるアツアツのうどんを食べる場面や、
餅や饅頭をほおばる場面を見ていると、 本当に美味しそうに見えてくるものです。
これも落語家の見せ場なのかもしれませんが NLPの視点から捉えてみると、
食べ物に関わる場面が 落語に現れることには大きな意味があります。
しかもそれは落語という話を聞く 形式だからこそ意味が大きくなるものだと言えます。
NLPでは人の五感を大切にします。
より正確に言えば、五感に限らず全ての 感覚器官を考えたいところですので 視覚と聴覚、
そして残りの全ての感覚器官をまとめた 体感覚の3つに分類するわけです。
落語では聞き手が、噺家の身振り手振りを見ることで視覚情報をとらえ 話を聞くことで聴覚情報をとらえています。
そして重要なのは、聞き手が話の状況をイメージするところです。
落語家の身振りを見て、話を聞いて、その場の状況を 自分なりに作り上げる作業が行われます。
聞き手が自分自身の過去に体験した情報を組み合わせ 1つのシーンを作り上げるのです。
ここで同時に、体感覚の情報も想像されることになります。
空腹な状態を思い出し、そこにサンマの焼ける匂いがする。
「サンマの焼ける匂い」という言葉を聞いた時 多くの人が自然と
「どんな匂いだったかなぁ…」と思いだそうとするわけです。
そして、それを思い出したとき、サンマの匂いを疑似体験することになります。
その後、サンマを食べるシーンは落語家が見事な演出で表現してくれる。
当然、「美味しそうだなぁ」という感じも出てくるでしょう。
特に『目黒のサンマ』に関して細かく分析すると
ボロボロの不味いサンマが出てくるところが重要です。
サンマを脂抜きして、骨を一本一本全て抜き取り 細かく身の崩れたものがお椀に入っている場面。
これを食べた事のある人は少ないでしょう。
すると、過去に自分が食べたサンマを一度思い出しそれを想像の中で加工して
「こんな味かなぁ」と工夫をする必要があります。
このときに必ず、実際のサンマの味をリアルに思い出すことになるのです。
ここでサンマの味まで疑似体験します。
匂いも味も疑似体験したら、サンマを食べたときの 状態も自然と思い起こされるものでしょう。
『目黒のさんま』を聞いた後、なんとなくサンマが 食べたくなってしまうのも無理はないかもしれません。
NLPでは、嗅覚や味覚を含めた体感覚を特に大切にします。
視覚や聴覚の情報は思い出したり想像したりしたときに
記憶にあるものか想像のものかが区別できますが
体感覚は思い出しても想像しても 今この瞬間に感じてしまうという特徴があります。
そして人の体験を、快・不快に分けるのも体感覚の結果です。
体感覚で「快い」と感じる体験は「良い体験」として意味付けされ 体感覚で
「不快だ」と感じた体験が「嫌な体験」として意味付けされるのです。
つまり、良い体験を思い出せば、 今この瞬間に「快い」と感じ、良い気分になれるということです。
そのためNLPでは、どのような体感覚を引き出すかを大切にするわけです。
それを踏まえると、落語というのは実に見事に 聞き手の体感覚を引き出していることが分かります。
落語家一人だけで表現される視覚と聴覚のメッセージから、
体感覚を含めた1つの情景を作り出していく。
その結果、笑いや感動という体感覚を引き出すのです。
想像力をかきたてる落語だからこその魅力のように思います。
生まれつきの違い
さて、NLPにおいては五感を「人間が世界を認識するためのもの」として 重要視しているわけですが、
実は最近の科学の研究において 五感そのものにも人によって違いがあることが判明しているのです。
哲学的な問いとして「自分が見ている色と他人が見ている色は同じだろうか」 というようなことが言われます。
このことに関連した発見があったのです。
世界トップクラスの科学雑誌『Nature』の2007年9月号に発表された記事によると
遺伝子のタイプによって匂いの受け取り方が違うということです。
男性の尿や汗に含まれる臭い成分のアンドロステノンという物質は
人によって違う感覚で受け取られるそうです。
凄く不快な臭いに感じる人もいれば 全くの無臭に感じる人もいて
さらには蜂蜜やバラのような甘い香りとして感じる人もいるというのです。
記事では、人の匂いセンサー遺伝子の1つ 「OR74D」の微妙な違いが、
アンドロステノンの匂いの 感じ方を決めていることを示してあります
(Keller A, et al. Genetic variation in a human odorant receptor alters odour perception. Nature 449:468-472, 2007.)。
こうした遺伝子の微妙な違いによる特性への 影響で分かりやすいのは
ABO式の血液型や、お酒に強いか弱いかなどですが
このような遺伝子の違いが嗅覚以外にも 味覚センサーや光を感じる網膜でも確認されています。
つまり、味や光や匂いは、人によって違った感じ方をしているかもしれないということです。
NLPは「地図は領土ではない」という考えを取り入れています。
これは同じ事実であっても人によって 受け取る内容が違うということを意味します。
江戸の庶民から見ればサンマは当たり前の食べ物ですが
殿様から見たら特別な御馳走になるわけです。
同じ事実であっても認識の仕方が変わると
意味が違うという考え方が、NLPの基本にあるのです。
しかし、今回の発見は認識する前の、
五感で無意識のうちに感じとっている情報さえも
人によって違う可能性があることを示したものです。
もしかすると、人によって見えている景色も、 聞こえている音も、
感じている様々なものも違っているかもしれないのです。
映画やドラマなどで登場人物の 心が入れ替わってしまうものがありますが
本当にあんなことがあったら、鏡で自分の姿を見て驚く前に
周りの世界が全く違っていることに驚いてしまうかもしれないわけです。
知らないことには気づけない
世界の捉え方は知識によっても異なります。
知らないものは認識することさえできません。
あるテレビ番組で、無人島での生活力を競う企画を放送していましたが
無人島生活の達人には私とは違ったものが見えているようでした。
もし私がその無人島にいたら食べ物に困ってしまうと思いますが
無人島生活の達人は草むらの中から食べ物を見つけます。
崖の岩場に水が流れているのを見かけると そこを登って行って沢ガニを捕まえます。
ツルのような葉っぱを見れば、根っこを掘り返して芋のようなものを取ります。
知識のない私には分からない情報を、達人は沢山見つけることができるのです。
知識があるから区別できる。 違いが分かり、意味が分かる。
そういうことは世の中に数多くあります。
なんだか良く分からない絵が芸術作品だったり ガラクタに見える
古いオモチャが希少価値のある高価な品物だったり。
ブランド物に詳しい人は、一目で他人の持ち物に気づくでしょうし
本物とニセモノの区別もつくかもしれません。
多くの男性からすると分からない百貨店の一階・化粧品売り場も
女性にしてみれば意味のある大切な場所です。その化粧品売り場も
ある芸能人が化粧品の販売員のモノマネをしているのを見たあとでは
全く違って見えてくるわけです。 知識によって認識できるものが変わる。
つまり、新たな知識を手に入れると、世の中の見え方も違ってくるのです。
NLPを学んだ人からすれば 目の動き1つをとっても意味が生まれてきます。
人の心の感じ方もコミュニケーションの質もそして自分自身の人生さえも
「何を知り、何に気づくか」によって変わってくるということです。